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日本の英語教育の歴史【日本で最初の英語の教科書】

日本の英語教育の歴史

日本の英語教育の歴史は1600年までさかのぼります!

英語話者とのファーストコンタクト

イギリス人でオランダの船の航海士ウィリアム・アダムス(William Adams)が、1600年に豊後沖(ぶんごおき)で遭難しました。

漂着したのち、長崎、江戸に送られ、家康・秀忠の外交顧問として侍になりました。

これが歴史上記録に残っている、英語話者とのファーストコンタクトです。

長崎ではオランダ語学習や研究が進められていました。

フェートン号事件きっかけで、英語の学習が進む

また、本格的に英語の研究が始まったのはフェートン号事件が始まりでした。

1808年 8月15日〜17日 フェートン号事件 His Majesty Ship Phaeton (HisとはGeorgeⅢ世)

イギリスのフェートン号がオランダ船のふりをして、国旗を掲げて長崎に入港しました。オランダの商館員から水、薪、食料を略奪した事件です。

当時の長崎は、日本でオランダ、中国と交易していた国際貿易都市でした。

このことがあり、長崎の通詞(通訳の以前の言い方)たちの間でオランダ語だけでなく英語の学習も進められていきます。

日本で最初の英語の教科書

1808年秋 蘭通詞に英語学習令が出されます。

1809年 開始!!

教師はオランダ商館副館長を務めていたブロムホフ(Jan Cock Clomhoff)で、元々はイギリスの陸軍でアイルランド駐留の経験がありました。

最初は、口頭教授法で、43歳の正栄から10歳の正栄の息子まで40名程度に一斉に授業をしていました。

幼年期の通詞は、英語とオランダ語を混同し、非効率的授業でした。

その後、1811年に「諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうしょうせん)」という日本最初の英語の教科書が生まれ、、

1814年に「諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」6000語からなる日本最初の英和じてんが生まれました!!今も長崎にあります。

1848年 ラナルド・マクドナルド(スコットランド人と北米の原住民族の子ども)が利尻島に上陸、もともと北米原住民のルーツが日本にあると思い、捕鯨船員になり、日本近海でボートで下船し、利尻島の番小屋の番人の多次郎と言語を学び合い、30日後長崎へ

日米の架け橋になったジョン万次郎

1851年 ジョン万次郎という土佐出身の人が、漁の最中に遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられました。船長に気に入られ、養子になり、アメリカでゴールドラッシュを経験したのち、日本へ帰国しました。

ジョン万次郎は通訳で活躍し、日米の架け橋になりました。

オランダ語から英語へ

1853年 黒船来航(US Navy Commodore Matthew Calbraith Perry)

1854年 日米和親条約(The Japan-US Amity Treaty)

1858年 日米修好通商条約を締結

こうして、日本とアメリカは条約を交わし、日本国内の数カ所の港を開き、外国人の住む地域を定め、言語もオランダ語から英語へシフトしていきました。

◆参考資料

早稲田大学 教育学部 英語英文学科 「英語科教育法」の授業資料より、まとめました。

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木佐しょうこ
イラストレーター・翻訳家の木佐しょうこです!